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~月命日定期便 26か月め~

「ごめんね」

3月末に辰濃哲郎氏により上梓されたルポルタージュ「海の見える病院」の登場人物が、胸つぶれんばかりに発した言葉である。

宮城県・牡鹿半島の付け根から少し北部に位置する石巻市雄勝町。太平洋が山に深く切り込んだ雄勝湾は三陸海岸南部の典型的な地形で、好天に恵まれれば東北地方とは思えないほどのコバルトブルーに染まる。その美しさは震災後2年を経ても変わることはない。

その美しい湾の最奥部に近い岸辺に、雄勝病院は立っていた。震災発生時、入院していた患者は40人。そのうちの多くが自力で動くことは困難だった。
居合わせた病院職員はドクター、看護師・看護助手、薬剤部、事務方など28人。3階建ての病院は屋上まで津波に呑まれ患者は全員帰らぬ人となり、生還した職員はわずか4人という惨事となった。

屋上まで必死に運び上げたものの、自らも共に津波にさらわれようとするその時、職員が患者に顔を寄せ「ごめんね」と謝る、その心の痛みは想像すらできない。
職員の誰一人として「逃げよう」という言葉を発しなかったばかりか、屋外にいて避難を勧められた副院長は「置いて逃げられない」と病院内に消えた。

「残された職員は多くの同僚を失った悲しみと同時に、患者を救えなかった負い目も抱えつつこれからも生きていく」

私のような者が、こんな日常的な表現でこの事実に触れても良いのだろうか、という葛藤を持つのだから、当事者やその周囲の方々がこれまで沈黙を守らざるを得なかったことは当然だろう。
だが2年に及ぶ取材を経て、当事者の皆さんの心境は「事実として語り継ぐ、そのために記録をつくれれば」、「息子がこの世に生きた証しを、何とか残してほしい」と変化してきたという。

「当時の状況をつぶさに尋ねる自分が、鬼に思えてくる」

絞り出すように記述される辰濃氏の心境が、出版に至るまでの困難なプロセスを象徴する。「この本をまとめたのは、ジャーナリストとしてのわがままな性」と氏はいうが、それだけで皆が口を開いたとは思えない。そうでなければ、亡くなった方を含む登場人物が全員、実名で記されることは実現しなかったはずだ。

先の黄金週間に雄勝を訪れた人は、病院の廃屋の取り壊しが始まったのに気付いたことと思う。今後の復興のことを考えると、震災の遺構をすべて保存することは許されない。だが物理的な存在は消え去っても、絶対に残しておかなければならないものがある。
その作業が可能になったのは、非難、拒絶を覚悟の上で外部からアプローチした辰濃氏の勇気の賜物であろう。

私のこの文章でさえ、耐え難いと思われる方もいらっしゃるかも知れない。「津波を見ていないお前に何がわかる」とお叱りを受けるのは半ば覚悟している。
それでもなお私がキーを叩くのは、困難な状況で前を向いて進みつつある当事者の皆様と辰濃氏への深い敬意、そしてこの病院をめぐる壮絶な記録を一人でも多くの方に知って頂きたいとの思いからとご理解頂ければと思う。

『海の見える病院――語れなかった「雄勝」の真実』 
(辰濃哲郎著、医薬経済社)

http://youtu.be/Psl-p7nG5N0

海の見える病院 ~石巻市立雄勝病院の記録~

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